やまなしの女性史を学ぶ 平塚らいてう
日時:2016年11月05日(土)(13:30〜16:30) 会場:小研修室1 料金:\0 (どなたでも) 定員:40名 平塚らいてう(明治19年生)は、明治44年、女性の手による雑誌『青鞜』を発刊、「元始、女性は実に太陽であった」という言葉は、女性解放運動の原点となりました。当時のメディアは「新しい女」と呼んで非難攻撃しましたが、らいてうは「自分は新しい女である」と宣言してひるみませんでした。その後奥村博史と法律婚を拒否した共同生活のもとで子を産み育て、与謝野晶子との「母性保護論争」や市川房枝らと設立した「新婦人協会」の運動などを通じて「いのちを産む性である女性こそ政治的権利を得て平和の担い手になるべき」と主張、戦後は自ら平和運動の先頭に立ちました。 第1回は、らいてう研究の第一人者である米田佐代子さんにその足跡をお話しいただきます。「新しい女」が“世の中を騒がせていた”頃、山梨の新聞でも「婦人問題」の記事が多くなり、大正6年には県庁正門の扉に「新しい女を撲滅せよ」と落書きされる事件が起りましたが、この年、笠井彦乃は京都で竹久夢二との生活を始めています。彦乃は竹久夢二の「永遠の恋人」、絵のモデルとして有名ですが、明治29年に本県西島村(現・身延町西嶋)で生まれました。9歳で日本橋で紙を商っていた父のもとに行き、夢二と出会いますが、大正9年に23歳で短い生涯を閉じました。これまで受け身の薄幸な女性というイメージの定着していた彦乃ですが、本当は、日本画で身を立て、夢二とも自立した関係を保とうとした「新しい女」だったのではないか? 第2回では、姪にあたる坂原冨美代さんから、新たな彦乃像をご紹介いただきます。 らいてうと彦乃、二人の接点は「日本女子大学校」(現・日本女子大学)です。らいてうは家政学科を卒業し、彦乃は付属高等女学校を中退して女子美術学校に編入学しています。日本女子大学校は「朝ドラ」で有名になった広岡浅子の尽力により創立されました。浅子は村岡花子が山梨英和女学校の教師だった大正3年に来県し、「生の自由」と題して県会議事堂で講演しています。女性の教育が盛んになり新しい生き方が模索され始めた大正期に、らいてうや彦乃が目指そうとした新たな地平が、現在の私たちにとってどんな意味を持っているのか、考えてみたいと思います。
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